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syamon識名宮の御祭神

伊弉冉尊    速玉男命    事解男命    午ぬふぁ神    識名女神




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syamon御 由 緒

 当宮は琉球八社と呼ばれた由緒ある社の一つです。社号は琉球神道記(一六〇八年)には「尸棄那権現」、琉球国由来記(一七一三年)には「姑射山権現」と記されています。尚、前者には「縁起亦明ナラズ。熊野神ト見ヘタリ。石窟惟霊地也」と祭神のことが記されています。
さらに近世沖縄における熊野三山、いわゆる権現信仰としては末吉宮は熊野新宮に、普天満宮は熊野那智(飛龍)に、識名宮は熊野本宮に見立てて信仰されていました。

 当宮は特に琉球王の篤い信仰を承け、尚元王(一五五六~七二年)の長子尚康伯の病気回復に霊験を得て、識名宮と神応寺を建て、大あむしられに看守させたといわれています。
尚賢王(一六四四年)から毎年一・五・九月の吉日に国王の行幸が始まりました。一六七一年隣接の神応寺は臨済宗より真言宗に改宗(住持覚遍和尚)。
戦前の識名宮神社の社殿はもと洞内にありましたが湿気がひどく腐朽し、康煕十九年(一六八0年)に洞外に移築して、瓦葺としました。  ときの惣奉行守浄(阿姓四世)によって、三月十一日~四月二〇日にかけて拝殿・石垣などの修補がなされ完成しました。(阿姓大宗家/那覇市史資料集1-7).王府時代は神職の役俸と営繕費は王府から支給されていました。

 戦前の建物は、三間社流造り、本瓦葺き、桁行三・七m、梁間二・四mの建築で、沖宮本殿に類似していましたが、残念ながら、戦災で焼失しました。戦後、識名宮奉賛会が発足して昭和四三年十二月に社殿が復興し、昭和四十七年五月十五日神社本庁包括、宗教法人識名宮となりました。




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syamon御 縁 起

社伝によると、昔古真和志間切識名村(現繁多川含)は、広々とした荒れ野原で、人家はありませんでした。毎晩その地から光る物があって北斗星と牽牛星の間にまで光射していました。ある時、近くの村に住んでいた崎間知之の妻大阿母志良礼といふ者が密かにこの光る物を見に行きました。夜の風が冷え冷えと吹いていて一面は暗く、辺りには人影もない所で、ただ一つの洞穴があるのみでした。その洞穴には賓頭盧が一体安置されていました。大阿母は夜な夜な北斗星と牽牛星の間まで光射しているもとは、きっとこの賓頭盧の霊光に違いないと思って、これを深く信仰していました。
洞窟すると、不思議な事にいろいろと願事が叶えられていきました。人々もこの話を聞いて、ここを信仰する者が多くなったといわれています。その当時、尚元王の長男大具志川王子朝通尚康伯が病氣を患っていました。大阿母はこれを聞き早速王子の御殿に伺い、賓頭盧の霊験が非常にあらたかであるといふことを言上しました。王子はこの話を聞いて、ただちに病気平癒の祈願をこめさせると、果して霊験あらたかで、病が日に日に癒されていつの間にかもとの元気な体になりました。その御神徳にたいして、王子は自分の財を奉納してお宮とお寺を創建しました。その側には家を建て大阿母を住まわせて宮を守らせました。この時から大阿母は毎月一日と十五日には、斎戒沐浴して国家安泰の祈念を始めました。その後、王府のはからいでこの宮寺が遂に官社に昇格し、大阿母には住居を御拝領賜ったといわれています。

又、別の伝承に、大阿母には一人の孫娘がいたのですが、その人と身なりは一般の娘と変わっていて、全身ことごとく白く、髪や眉までが雪のようでした。また言葉を慎み神仏を深く信仰し、魚や肉を非常にきらって野菜を常食としてひたすら精進していました。

或る日、孫娘が屋敷の榕樹がじゅまるの下に行くと突然その姿が消えてしまいました。それ以来姿を見せなくなって、家族の者は不思議に思い続けました。その後、その不思議な娘のことを神の化身として尊び、供え物は常に野菜精進物に限っていました。
木大阿母は、家族の者に対して「あの榕樹がじゅまるの所には必ず神が居られるので、伐ってはならない、また枝も折ってはならない」と戒めました。人々もまたこれを聞いて信仰する者が多くなったと云います。 大昔は識名村には人家がなく、大阿母の家があるばかりでした。それ以後、次第に人々が集まるようになって村落が出来、後に識名と繁多川に分かれました。